ロシアの歴史は9世紀末にはじまります。日本では平安時代にあたります。
原初年代記によれば、9世紀末にノルマン人が、彼らの支配した東スラブ人居住地域(ルーシ)内のキエフ(現在のウクライナの首都)を中心に建国したキエフ大公国(キエフルーシ)がロシアの起源とされています。 同国は東ローマ帝国との関係に腐心し、10世紀末キエフ大公国のウラジーミル1世は東ローマ皇帝の妹アンナと結婚し、東ローマ国教であった東方正教会を国教として受容しました。 ウラジーミル1世は、一旦はキエフ大公国を中心にルーシをほぼ統一しましたが、分封やキエフ大公国衰退に伴い、ルーシは再び多くの公国に分かれていきました。
1240年頃、東から来襲したモンゴル軍にルーシの諸公国は滅ぼされ、ルーシはモンゴルの支配下に入りました。 この時代を「タタールのくびき」と呼びます。 くびきとは農耕時に牛など家畜の首に取り付ける道具で、当時の支配状況を例えた言葉です。 因みにモスクワにはアルバートという通りがありますが、アルバートとはモンゴル軍の10人部隊の名称で、この時代の名残であるとされています。
モンゴル支配下のルーシでうまく立ち回り実力をつけたモスクワ大公国(モスクワ・ルーシ)は、1480年イワン3世(イワン大帝)のもとモンゴルの支配から脱却し、ルーシ統一・専制体制・農奴制を推し進めました。 1472年、イワン3世が東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアと結婚したことで、モスクワ大公国は東ローマ帝国の継承者としての正確を強めました。 東ローマ帝国の紋章である双頭の鷲は、現在のロシア国章にまでその姿をとどめています。 また、元来ローマ皇帝を指すツァーリ(皇帝)の称号を初めてロシアで用いたのもイワン3世とされています。 モスクワ大公国の支配領域は、「ルーシの国」という意味で「ロシア」と呼ばれるようになりました。
モスクワ大公国のイワン4世(イワン雷帝)の死後混乱が続きましたが、1613年ロシア貴族のミハイル・ロマノフが帝位に就き、ロマノフ王朝が誕生しました。 1721年に帝位に就いてピョートル1世(ピョートル大帝)は、西欧を模倣した改革を実行し、18世紀初頭に首都をモスクワからサンクトペテルブルクに移しました。 19世紀にはナポレオンの侵略を阻止するなど、ロシアは軍事大国として世界に台頭しました。 しかし農奴制をはじめとする前近代的制度の改革が遅れ、国内政治経済の矛盾は拡大し、日露戦争(1904年~1905年)ではアジアの小国に過ぎなかった日本に敗れました。
第一次大戦下の1917年に起こった二月革命でロマノフ王朝が崩壊し、更にレーニンが主導した十月革命を経て、1922年12月30日ソビエト社会主義共和国連邦が建国されました。 レーニンの死後、後継者争いを勝ち抜いたスターリンは、第二次世界大戦に勝利し、中東欧諸国を社会主義陣営に組み入れ、ここに東西冷戦構造が確立しました。 しかし圧政や軍国主義の下、国民生活は放置され、国内政治経済の矛盾は拡大しました。
1985年、共産党書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ(建て直し)・グラスノスチ(公開性)のスローガンのもと、政治社会体制の刷新を目指しました。 しかし変化の速度はゴルバチョフの予想を越え、ソ連を構成する各共和国で独立の気運が高まりました。 連邦維持を望む保守派は、1991年8月ゴルバチョフを拘束しクーデターを決行しましたが、ロシア共和国大統領エリツィンの反撃の前に敗れました。 その後、1991年9月バルト3国が独立を回復、1991年12月ゴルバチョフはソ連解体を宣言しました。
ロシア連邦は、旧ソ連の対外債務・外交条約などをすべて引継ぎ、困難な船出となりました。 府はショック療法といわれる経済のハードランディングを試みましたが、供給不足下での価格自由化は猛烈なインフレを招き、経済は大混乱に陥りました。 エリツィン大統領と議会の対立は先鋭化し、1993年9月エリツィンは議会を強行解散、同10月には抵抗する議会の建物を砲撃し、多数の死者を出しました(モスクワ騒乱)。 その後も議会では保守派優位が続きましたが、1993年に制定された新憲法では大統領権限が強く、地方権力の取り込みもあり、政権崩壊は免れました。 1996年の大統領選挙は決選投票までもつれこんだものの、財閥・マスコミ等を総動員したエリツィンが共産党候補に勝利しました。 西側諸国は一貫してエリツィンを支持し、債務繰延やIMF融資を通じて政権を支えました。 1996年に経済的混乱が一服し、ロシア連邦初の外債が新興市場ブームの中スムーズに消化されると、政府内に楽観ムードが漂い始め、財政赤字削減努力は後退しました。 そして1998年8月、国債残高増加と油価下落により、財政は破綻し、政府は国債元利払い凍結や通貨切り下げに追い込まれました(ロシア金融危機)。 その後、1998年~1999年の間に5人の首相(チェルノムイルジン・キリエンコ・プリマコフ・ステパーシン・プーチン)が登場するなど、政治は流動化しました。 1999年9月、プーチン首相はモスクワアパート連続爆破事件などに対応して、チェチェンゲリラ掃討作戦を開始し、国民の支持を得ました(第二次チェチェン紛争) 1999年末エリツィン大統領の辞任を受け首相兼大統領代行に就任したプーチンは、2000年3月に前倒しされた大統領選挙に勝利しました。 大統領1期目のプーチンは比較的改革に意欲的でしたが、2期目に入ると資源価格高騰により改革の必要性が薄れ、保守的傾向が強まりました。 チェチェン問題は泥沼化し、ペスラン学校占拠事件など多くの悲劇が起きました。