
1812年12月25日ロシア皇帝アレクサンドル1世によって、ナポレオン戦争(1812年ロシア戦役、祖国戦争)後、戦勝記念と戦没者慰霊を目的に大聖堂の建立が勅裁された。
その後、アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世の依頼を受けたコンスタンチン・トーン(コンスタンチン・トン)の再設計により、1839年に現在のモスクワ河畔、クレムリンの向かい側に敷地を移して建設工事が再開された。建設に先立ち予定地にあった教会、修道院は移転した上で1839年9月10日基礎工事が終了した。トーンは、設計にあたっては聖ソフィア寺院に範を取り、ナポレオン戦争におけるロシア正教の勝利をテーマに設定した。内装はワシリー・ヴェレシチャーギンらロシア国内の芸術家を総動員し、19世紀における技術革新によって可能となった巨大な内部空間に壁画や彫刻を配置した。特にフレスコ画は完成に12年を閲し、この荘厳な大聖堂は完成に44年もの歳月を要した。大聖堂は、1883年5月26日アレクサンドル3世の戴冠式に献堂された。。
ロシア革命により、ロシア正教会は大打撃を受ける。1917年救世主キリスト大聖堂において聖務会議が廃止され、総主教制が復活する決定が成されたが、「宗教はアヘン」と見なすソビエト政権によって正教会に対する圧迫、迫害は続き、正教会はソビエト国家への従属を加速化していった。レーニンの後継者となったスターリンは、反宗教政策を激化させていった。1931年7月18日イズヴェスチヤ紙にソビエト大宮殿(ソビエト宮殿とも、w:Palace of Soviets)設計コンペティションの要項が掲載された。そしてソビエト大宮殿建設地には、大聖堂の場所が指定された。新聞は大聖堂について「グロテスクかつ、全く非芸術的」「モスクワの顔にさいた毒キノコ」であると連日、批判を加えた。こうしてソビエト宮殿建設を名目として救世主キリスト大聖堂の爆破解体が決定され12月5日大聖堂は爆破された。まさに宗教と文化に対する暴挙であった。。
大聖堂の爆破解体後、数次に渡るコンペ、技術的諸問題の解決を経て、ソビエト大宮殿の建設は緒に就いたが、第二次世界大戦による中断と、敷地の軟弱な土壌及び塔の先端にそびえ立つレーニン像が雲に隠れやすいという理由により、宮殿建設は永久に中止となった。宮殿の基礎建築跡には屋外市営プール「モスクワ」(モスクワ水泳場)が建設され、ソ連時代を通じてモスクワ市民に利用された。
(画像は弊社撮影・説明文はウィキペディアより引用)